エリ、エリ、レマ、サバクタニ
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
この言葉を聞いたことがありますか?初めて聞く方にとっては、何かの呪文のように聞こえるかもしれません。この言葉はイエスが十字架上で亡くなられる直前に叫んだ言葉とされています。この言葉を聞いていた人たちは、エリヤを呼んでいると思っていました。しかしこの言葉は「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味なのです。そしてこの言葉は旧約聖書の詩篇にも出てくるのです!!
まず、詩篇とは何なのかを軽くお話します。詩篇とは古代イスラエル民族が神を賛美した詩を150篇集めたものと言われ、モーセやソロモン、ダビデなど多くの人が書いたと言われています。
「わたしの神よ、わたしの神よ。なぜわたしをお見捨てになるのか。」から始まる詩篇22章はダビデが激しい苦しみの中で神の救いを求めて祈ったと言われる部分です。イエスも十字架上で神に見捨てられるということを経験します。しかし、見捨てられる中でも祈り、自らを神にゆだねます。イエスのこの状況はダビデが詩篇22章で書いたことと同じ状況と言えるでしょう。では、マタイ福音書と詩篇を読み比べてみましょう。
わたしの神よ、わたしの神よ。なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
だがあなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。
「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。」
わたしを母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。母がわたしをみごもったときから、わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。
わたしを遠く離れないでください、苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。
雄牛が群がってわたしを囲み、バシャンの猛牛がわたしに迫る。餌食を前にした獅子のようにうなり、牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。わたしは水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける。
口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを、彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。
主よ、あなただけは、わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ、今すぐにわたしを助けてください。
わたしの魂を剣から救い出し、わたしの身を犬どもから救い出してください。獅子の口、雄牛の角からわたしを救い、わたしに答えてください。
わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します。主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。
それゆえ、わたしは大いなる集会で、あなたに賛美をささげ、神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
地の果てまで、すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。命に溢れてこの地に住む者はことごとく、主にひれ伏し、塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。
わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。(詩篇22章)
そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。
そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。(マタイ福音書27章33節〜50節)
つまりマタイ福音書におけるイエス・キリストの死は詩篇に書き記されてことについて預言の言葉が逆巻きになった順番で成就したのです。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉は人々や神からも見放されたイエスの深い苦悩と神への絶対的な信頼(御父である神との一体)を示す言葉であると同時に私たちの死への勝利と神の栄光を告げ知らせる言葉でもあったのです。